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1956 祈りながらプレスした日本初のステンレス深絞り流し台

厳しい住宅事情に一筋の光明

終戦から10年あまりたった1956年(昭和31年)。人々の生活にはようやく落ち着きと余裕が戻りつつあったが、戦後の厳しい住宅事情は未だ改善しておらず、東京では多くの人々が風呂なし・二間続きの狭い空間で身を寄せ合うように暮らしていた。台所も小さい流しが付いているきりで、主婦が満足に料理の腕を振るえるような代物では無かった。
そんな日本の住宅事情に一筋の光明が差し込んだ。公団住宅の建設である。進駐軍向け住宅を参考に、台所と食卓が一つになった“ダイニングキッチン”(ダイニングルームとキッチンを合わせた和製英語)を採用。そこに用いられたのが、「ステンレス深絞り流し台」だ。

日本初の“ステンレスのプレス加工”に挑戦

公団住宅のダイニングキッチンには、戦前にアメリカで開発され、日本にも入り始めていた新素材「ステンレス」を用いることがあらかじめ決められていた。耐久性に優れ、見栄えも良かったからだ。まさに、新時代の住宅の象徴だったが、職人が一つずつ手作業で溶接しており、当時の一般的な流し台の5倍もコストがかかった。さらに公団住宅への導入には大量生産が必要不可欠だったが、当時の日本には、ステンレスのプレス加工ができるメーカーは皆無だった。
白羽の矢が当たったのが、東京・板橋に板金工場を構えていたサンウエーブ(当時)。自動車部品の製造に用いる大型のプレス機械で、“日本初のステンレス深絞り流し台”に挑んだ。
この社運をかけたプロジェクトには二人の若手社員が抜擢された。二人は工場の前にアパートを借り、寝る間も惜しんで作業に没頭したが、何度やっても上手く行かない。問題は金型表面仕上げの精度だった。誤差が大きいと圧力がかかった時にステンレス板が割れてしまうのだ。失敗作は月に400個を数えた。最後は神頼みで、板橋から近い巣鴨のとげぬき地蔵のお札をステンレスの四隅に貼り、毎回祈るようにプレス作業を行った。
失敗を繰り返し、ようやく成功したのは1956年の9月20日。公団住宅は、翌年7月の販売開始を目指して既に建設をスタートさせていた。なんとかギリギリでのすべり込みセーフ。二人の若手社員は納期に間に合った安堵感と、日本初の偉業を成し遂げた喜びとで、涙をポロポロと流して喜んだ。
以降、公団住宅の隆盛とともに、ステンレス製の流し台が一気に普及。台所と食卓が近づき、主婦も料理を作りながら一家団らんに加われる“ダイニングキッチン”を世に広めた。弊社の製品が日本の家族の幸せづくりに一役買ったのである。

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