「小麦を作って、その小麦でパンを作る。日本でほかに誰も出来ない僕だけのパンができるかもしれない」。そんな新たな気持ちで、馴染みのある横須賀で店舗を借りようと探し始めたが、どうもしっくりこない。「自分で育てる小麦でパンを作るのに、なんで畑の近くに店をつくらないんだろう?」と思い直し、探した物件の中で、畑に一番近かった今の場所で、2008年に「充麦」はオープンとなった。
自然の流れに抗わず、素直に受け入れる

小麦を貯蔵している古民家の蔵まで、キャベツや大根の畑の中の道を抜けて車で5分ちょっと。その間に点在するいくつかの畑で小麦を育てている。
「今年は小麦が育たなかったんです。畑をやって初めてのことで、原因はわからないんですが。農業技術センターで種を調べてもらおうと思って」と、残念なことを話しつつも、淡々とした表情の蔭山さん。小麦は製粉する前なら長く保存ができるそうで、来年の分まで蓄えはある。ただそのことでの安心感というよりは、自然の流れに抗うことなく、素直に受け入れる姿勢がそこにあるように見えた。最初の小麦をダメにしてしまったときも、2017年 秋の大雨による災害で、店が腰のあたりまで床上浸水してしまい、修復にたいへんな労力を費やした事態を語る様子にも共通していた。
同じレシピでも、作り手によってそれぞれのパンに

「手でこねて、酵母で発酵させて、手で成形して焼いて、手でちぎって食べるパンは、すべて手を使っています。同じレシピでも、作り手によって人それぞれのパンになる。手から、その人の思いとか、なにか氣のようなものが出ていて味に作用してるんじゃないのかなと思うんです。いちばん美味しいパンは、アニメキャラクターのパン職人のおじさんが『おいしくなぁれ、おいしくなぁれ』のパン。僕もそう思って作っているんです」と真面目な声で話してくれる。
小麦の味がストレートに出る水を選んだ

素材を作るところから始まるパン作り。「8ヶ月をかけて育てた大切な小麦だから、合わせる材料、ひとつとっても失敗はしたくない」と蔭山さんは言う。充麦のパンのほとんどは、小麦、酵母、塩と水の4種の材料の配合。「無駄を省いたパンだからこそ小麦の本当の味がわかる」のだ。
「小麦100に対して、水は70と、とても多くの割合を占めるので、水が味に作用しないわけがありません。パン屋を始める前に、水道水、ミネラルウォーター、浄水でパンを作り比べてみました。味は全部違って、浄水がいちばんすっきりとしていて、小麦本来の味がストレートに出ていると思いました。今も工房では浄水を使っています。塩はフランスのゲランド。天然酵母はオープン以来種継ぎしたものを」。やわらかな口調の中に、スッと一本筋が通っている。

「『食』という字は、人に良いと書きますね。体だけでなく、心とか気持ちにも影響してくるのが食なんだと思います。食を囲んでのおしゃべりやその場の雰囲気も、それ全部ひっくるめて食なのだと、僕はずっとそういうことを考えてパンを作っています。充麦のパンがコンテンツとなって、みんなの生活が豊かになるのが嬉しい。僕ひとりではできないことで、僕たちみんなでパンを作っているんです」。

パンを作るのも、お客さんと話すのも好きで、「僕は朝、お店にいって音楽をかけているだけ」と笑う蔭山さん。「基本は、『行って働きたいと思える仕事』をしたい人」と自らを表現する。いつも「ほんとうにやりたいことは?」と自問自答して人生のガイドラインにしてきた。蔭山さんが選んだ「パンを作る」というひとつの道を通して、シンプルでまっとうな価値観を見せてもらった気がする。
撮影/名和真紀子 取材・文/山根佐枝
取材日/2019年5月27日