厨房では豚肉の入った鍋がユラユラと揺らぎ、雅史さんがスープに使うトウモロコシを裏ごししているところだった。客席の並ぶフロアの片隅では、裕江さんが前庭から摘んで来たワイヤープランツでナプキンリングをこしらえている。無言ながらも、阿吽の呼吸で進められる営業前の準備。各自の持ち場をパーフェクトに仕上げるために行われる儀式のような作業だ。料理にはじまり、サービスやインテリアの設えに至るまで、ひとつひとつ、丁寧に、真面目に向き合う二人は、ここで14年前から店を構えている。オープンの頃は苗木だった植栽は、テラコッタの鉢を何度も大きくして植え替えられ、エントランスからテラス席までを豊かなグリーンで覆うほどに育った。
素材と水だけという献立

この日のために用意された料理は、トウモロコシのスープとパスタ・イン・ブロード、そして豚肩ロースのボッリート、サルサ・ベルデとハーブマスタード添え。「水」をテーマにした取材に応えての献立を雅史さんは考えてくれていた。
「まさにトウモロコシと水だけ」と言うスープは、茹でたトウモロコシをピュレにしてから裏ごしし、水を少し足す。「いちばんいい時期のコーンは、水が良ければそれだけで美味しいスープになります」と。ここで言う「水」とは浄水のこと。冷製にするために、スープの入ったボウルを冷蔵庫へとしまったその手は、すでに次の作業、パスタ作りに取り掛かっている。
「今日は水と粉だけで作るパスタにします。卵黄を加えるパスタなどもありますが、水だけにすると食感がうどんに近いものになるんです」と説明をしつつ、ショートパスタとロングパスタの性質や加える水の温度、こね方の違いを語る雅史さん。「強くグルテンを出すために、水の温度は高め、菊練りでしっかりと10分捏ね、一晩寝かせて」と撮影のためにそこまで実演をしてから、あらかじめ仕込んでおいた生地を取り出し、「縦横を3回繰り返して、パスタマシーンで薄くしていきます」とレクチャーをするように見せてくれる。どんなパスタに仕上がって欲しいのか、粉と対話しながら捏ねていく様子。まるで頭の中にはこれまでの経験をもとにしたパスタ辞典があって、ニーズに合わせてページが開かれていくかのような、的確な裏づけがある。
澄んだ水だからこそ引き出される味

パスタを茹でるのも浄水。塩素や水道水独特の匂いを取り除いた水でなくては、粉の味がはっきりと生きてこない。茹でたパスタは、カサゴ、タイ、太刀魚やアナゴでとったスープと一緒にサーブされ、ニンニクの入ったオリーブオイル、唐辛子の入ったオリーブオイル、おろしたチーズを少しずつ加えて味の変化を楽しみながらいただく。魚の出汁スープの繊細な味わいもまた、澄んだ水だからこそ引き出されるのだと雅史さんは言う。
先ほどから鍋の中で仕込んでいた豚肩ロースの水煮は、「肉に塩をして一晩寝かせて、水から鍋に入れて火にかけ1時間半」。沸かさないのがポイントなのだとか。そのものの味を出したい時は水から茹でる。豚はあえて癖のないものを選んで、水の美味しさがわかる料理に仕上げたかったと話してくれた。
料理をつきつめることで、見えてくる水の話

調理をひと通り終えた雅史さんに改めて「水」の話を向けると、「水が良ければ、美味しくなるんです」と。もちろん前提には、選りすぐりの素材がある。そのもち味をクリアに引き出すことが、いちばんのミッション。葉物は洗って水に浸すと、その水を吸い上げてシャキッと元気になる。だから水によって味も変わってくる。雑味のない水は素材と結びついてより味の輪郭がはっきりとする。例えば、「とうもろこしスープは牛乳を加えると、薄く膜が張るように本来の味を覆ってしまう」のだとか。素材を信頼しているからこそ、余計なものは入れたくない。また、煮詰めていく西洋料理では、水道水に含まれる雑味は凝縮されて味を大きく左右する原因にもなると言う。

料理を突き詰め、素材選びにとことん心を砕いている人だからこそ見えてくる「水」の話。「水道水よりは、浄水がいい」と漠然と思っていた私たちがもう一歩踏み込んで「なるほど」と思える説得力のある見解。さらにその料理を口にするとストンと肚落ちする。トウモロコシのスープは、採れたての自然の甘みがそのまま舌で感じられるような一品に。歯ごたえのいいパスタは、粉の味わいが魚のスープを背景に引き立っている。柔らかく煮上がった豚肉は、脂がほどよく落ち、残された旨味と食感を2種のソースで楽しむような料理。どれもシンプルであっさりとしているけれど、複雑に手を加えた皿とも違う忘れがたい味だった。
撮影/名和真紀子 取材・文/山根佐枝
取材日/2020年8月18日