トントントントン、美味しい匂いと共に、まな板をリズムよく叩く音が響く。よしず越しに明かりの差し込むキッチンには、使い込まれた調理器具や器、保存食品のビン、食材などが、ところ狭しと並んでいる。どれひとつ埃をかぶっているものはなく、それぞれが日々活用されている「生きているキッチン」。築40年以上という家は、建てられた当時は相当モダンな設計だったことを思わせる天井の高いエントランスとリビングをもち、遠藤千恵さんは、かつてダイニングキッチンだった空間をケータリングのアトリエとして使っている。同時進行でいくつかの鍋が湯気を上げ、澄んだ水で洗われた野菜が竹のざるに。このキッチンで、多い時で50名分もの料理をひとりで仕込むのだと言う。
野菜を知りたいという気持ちで畑を経験

家のある土地は、都内から車で40分、駅の周りに賑わいもあるけれど、10分ほど歩いた住宅地は静かで、すぐ近くに畑が広がる。千恵さんは、ここに引っ越してくる以前6年ほど畑に携わっていた時期があり、畑でのご縁でこの家に住むことになった。「畑は大変で今はやっていません」と言うけれど、農作業の一連の流れを見ることができてよかったと振り返る。やっている仲間はいるので、「今は口だけ」と笑いながら、種や苗の提供など、千恵さんのできる範囲での協力をしているのだとか。

畑をやりたかったのは、交流のある野菜の作り手たちの話を理解したいという思い、同じ目線で話しをしてみたかったから。料理人として、野菜をもっと知りたいという気持ちが原点だった。その根底に流れる「素材」への愛が、千恵さんのつくる料理の美味しさや幸福感につながっている。
体をつくる正しい料理で、喜んでもらいたい

料理を始めたのは小学校2、3年生の頃。仕事が忙しい母に代わって台所に立ち、兄弟の食事を作っていた。その料理熱に火を点けたのは、4年生の学校の授業で習ったカレーライスを家で再現したときの母の言葉。「あなたは才能がある! お母さんはこんなにしてもらえて、ほんとうに助かるわぁ。ありがとう」と大絶賛された。人を喜ばせた初めての経験は、千恵さんの心に深く刷り込まれた。「料理をすることで、だれかが喜んでくれるのがすごくうれしかった」という記憶は、今なお、千恵さんのモチベーションのベースにある。
大学時代は、体育会ボート部のマネージャーとして活躍。そこでは調理師の先生からアドバイスを受け、部員100名分の食事を作った。男子大学生の食のバランスは通常はひどいものだ。「食事を変えることで、見る見る選手たちのパフォーマンスが上がっていったんです」と。その時「料理ってすごい!」という確信が生まれた。

さらに、自らの体の変化も食を通して経験したと話をしてくれた。「社会人になって、ファスティング施設に行ったときに、マクロビオティックに出会いました。今までの自分の概念になかった玄米菜食にしてみたら、悩まされていた体の不調が気にならないようになりました」と。「食べるもので人はつくられている」ということを体感し、「体をつくる正しい料理で、人に喜んでもらいたい」という、普遍のテーマが明確になった。
32歳で決意し「食の道」へ

大学を卒業して国際線の客室乗務員という職に就いたことは、「人をもてなすことが自分の喜び」という千恵さんの最善の選択だった。サービス業の中でもゲストに対して点ではなく、線でサービスできる客室乗務員を天職だと思った。「真に人の心を満たすことができるのは、ハードでもソフトでもなく、ヒューマンウェア。結局は人の心でしかない」と、心を尽くして業務に取り組んだ。その一方で、マクロビオティックの学校に通い、料理教室のアシスタントをするなど、プライベートでは「食」という自らのテーマを追究していた。千恵さんが「機が熟したタイミングで」と言うように、「仕事」か「食」か、ふたつの道が人生の選択肢に並んできた頃、耳の不調で航空機での乗務を1年間休まなければならなくなる。それがきっかけとなり、32歳のときに、いよいよ「食の道」へと進むことを決意。10年近いレストランでの勤務を経て、5年前に独立、このキッチンのある家で暮らしている。
撮影/名和真紀子 取材・文/山根佐枝
取材日/2020年6月25日