作っている料理はもちろん、使っているまな板や並んでいる野菜、すべてにストーリーがありそうで、料理を見守りながら、つい声をかけてしまう。するとていねいに言葉を選んで答えながら、その間も手は早さを緩めず作業は進んでいく。余裕のあるその佇まいに、以前の客室乗務員だったというキャリアが垣間見える。毎週取り寄せている野菜が、昨日長野から届いたばかりとうれしそうだ。「この農家さんの作る野菜は、清らかな味がします。山の澄んだ水が畑に入ってくる土地で、作り手さん自身も畑に向き合うとき自分の状態を良く調えるのだそうです。生き物同士だから、野菜にもそれが映し出されるのでしょう」と、愛おしそうな目で調理台の上のズッキーニを見る。「ここの野菜は水と塩だけで炊いてもとても美味しい」と。
「皿の上に『我』を載せるな」
環境に配慮し、生命の循環に沿った「作り手がわかる野菜」を中心に使う千恵さん。特にそれを大切にするようになったのは、その農家と同じ地域にある蕎麦屋のそば打ち職人に大きく影響を受けたことにある。地場産食材と職人技を融合した農家レストランの草分けとなった店を営んでいたこの人物には、料理の道に進み始めて4〜5年たった頃、「いい学びがあるはずだから、一度会いにいったほうがいい」と勧められ、訪ねて行ったと言う。
「料理人なんてちっぽけなものなんだ。我々が作るんじゃない。農家さんが作る良い土があれば植物が育つ。良い食を作るには、いい土が必要。本当の料理人はお百姓さんだ。彼らが土の料理人で、いかに大事にして野菜を作るかが大切」と、話してくれたのだそう。そして「皿の上に『我』を載せるな。料理というものは、人様の口に入る尊いものだから」と。記憶が鮮明に蘇るかのように、そのときの言葉を語る千恵さん。明け方から山や森や沢に入り、食材を摘んでくる職人に付いて行ったこともある。「遠く海の向こうではなくて、とにかく足元を見ろ。足元にお宝がいっぱい転がっている。これでどれだけの料理を作るかが、料理人の使命だぞ」と。
野菜自体が美味しいから、洗う水にこだわる
そんな言葉に「頭をかち割られる」思いをした。料理学校を出ていないし、イタリアやフランスに行っていたわけでも、一流レストランにいたわけでもない自分にどこかで引け目を感じていた。「でも、そんなちっぽけなことではなく、いかに目の前にある食材と向き合うか。自然界の中から温かな眼差しをもって見つけ出し、丁寧に調理することの大切さを教えられました」。同時にその言葉から、謙虚であることを学んだのかもしれない。千恵さんは常にまわりに感謝の気持ちをもって接しているのが、話しの節々から伝わってくる。
「素材との出会いがとにかく楽しい。『〇〇さんが心血を注いで作ってくれている』という野菜は、自分も真っ直ぐに向き合おうと鼓舞してくれる存在。何もしなくていいと思えるくらい野菜自体が美味しいので、料理として出す時には誇らしい気持ちになります」と。料理はひとりでするけれど、米や野菜を作る農家、魚を扱う卸、それぞれが持ち場を守るチームでやっているような感覚で、「最終的な出口がここだということにすぎない」と、協力できる喜びを語る。
届いた大切な野菜たちを水道水で洗うのには抵抗がある。特に野菜料理は「洗う」、「茹でる」、「煮る」、「晒す」など、水とは切り離せない。以前はウォーターサーバーを使っていたこともあるけれど、調理には不便で、以来浄水器を使うようにしていた。最近新たに付けた浄水器は、浄水にしても水の勢いが変わらず野菜を洗うのに都合がいいのだそう。「塩と水だけで美味しい」野菜たちのために、癖のない水が重要。そのために浄水器を通した水を使っている。
料理人として、いかに仲介人になれるか
これからの活動に話題を向けると、野望はないけれど「目の前にあることに対して、どれだけ自分がお返しできるか。今ある環境の中で、自分にできることは何かを探っていきたい」と。優しく力強く、落ち着きのある口調。一方で、四季の移り変わりや畑の作物などには、ひとかたならない好奇心がある様子で、「自分が中心ではなく、役割として、四季の美しさと共に生産者のすばらしさを伝えられるものを何かの形で残したい」と遠慮がちに話してくれた。きちんと作られた野菜は、みなさんに知っていただくことで、作り手の思いが生きてくる。そば打ち職人からの教え、「いかに仲介人になれるか」。料理人生の中でいちばん大きなミッションを遂行し続けている。
子供の頃の原体験が育んだ、美味しいものを皆で囲む豊かな時間への思い。「体をつくる正しい料理で、喜んでもらいたい」というブレないテーマ。素材を褒めて、その良さを引き出し伝えようとする千恵さんの手は、料理と一緒に幸せな気持ちというエッセンスを盛り付けているのかもしれない。
撮影/名和真紀子 取材・文/山根佐枝
取材日/2020年6月25日